クローゼットの奥に、ベージュの綿のジャケットがありました。

傷んでいるわけではありません。

穴も、ほつれもない。

ただ、なんとなく袖を通さなくなっていた一枚です。

染め直し前のベージュの綿ジャケット。ハンガーに掛かった状態

こういう服が、いちばん惜しいと思います。

捨てる理由はないけれど、着る理由もない。

今回は、この一枚を鈍色(にびいろ)に染め直しました。

綿のジャケットをお預かりしました

素材は綿です。

綿は染め直しに向いた素材のひとつで、当店でもよくお受けしています。

染め直しができるのは、基本的に天然繊維です。

素材ごとの向き不向きは、こちらにまとめています。

染め直しできる素材・できない素材|染色適性と注意点を徹底解説

染め直しを考える前に知っておきたい「素材と染色の相性」。混紡素材や再生繊維、撚りや織りの違いまで、染めにくい理由と成功のコツをていねいに紹介。

鈍色(にびいろ)という色のこと

今回選んだ鈍色について、少しご紹介させてください。

当店の色のなかでも、根強く人気のある一色です。

矢車附子の実で染めます

鈍色は、矢車附子(やしゃぶし)という木の実を煮出して染めます。

ハンノキ科の低木で、松ぼっくりを小さくしたような実をつけます。

この実を煮出すと、渋みのある茶褐色の染液がとれます。

そこに媒染(ばいせん)という工程が加わります。

媒染とは、染料を繊維に定着させ、同時に色を決める工程のことです。

同じ染液でも、何を使って媒染するかで、出てくる色がまるで変わります。

鈍色では、ミョウバンと木酢酸鉄の両方を使います。

鉄が入ることで、茶色がかった染液から、あの落ち着いた灰色が立ち上がってきます。

染めているところを見ていると、布が液から上がった瞬間に色が沈んでいくのが分かります。

天然染料のおもしろいところです。

平安の「鈍色」、江戸の「鈍色」

鈍色という名前は、ずいぶん古くからあります。

平安時代には、灰色全般を指す言葉として使われていました。

語源は「鈍る(にぶる)」だと言われています。

刃物の切れ味が落ちる、あの「鈍る」です。

当時の鈍色は、喪の色、そして出家の色でした。

平安の文学作品にたびたび登場します。

華やかな色を身から離す、という意味を持った色だったようです。

ところが、時代が下って江戸に入ると、鈍色の立ち位置が変わります。

茶色や藍色と並んで、「粋」な色とされるようになりました。

同じ灰色が、離れることの色から、洒落ていることの色へと移っていったわけです。

染め屋として、この話は好きです。

色そのものは変わっていないのに、見る人の目が変わると、意味まで変わってしまう。

着なくなった服が、色を変えるとまた着たくなる。

それと、どこか似ている気がします。

どんな色とも合わせやすい

実用の面でも、鈍色は扱いやすい色です。

灰色は、ほかの色とけんかをしません。

白でも、黒でも、藍でも、そばに置いて落ち着きます。

当店の11色は、こちらでご覧いただけます。

イロノコト|貴久の色について

いちばん気がかりだったこと

染め直しは、元の色を抜いてから染めるものではありません。

いまある色の上に、新しい色を重ねます。

ですから、元の色の影響を必ず受けます。

今回でいえば、下地はベージュです。

黄みのある明るい色の上に、灰色をのせることになります。

正直なところ、染める前はここがいちばん気がかりでした。

ベージュの黄みが残って、濁った色になるのではないか。

鈍色特有の、あの静かな灰色が出ないのではないか。

こればかりは、染めてみないと分かりません。

染め上がり

こちらが、染め上がったジャケットです。

鈍色に染め直した後の綿ジャケット。落ち着いた灰色に仕上がっている

元のベージュの影響は、あったと思います。

まったく無かったとは言えません。

それでも、良い感じの鈍色に染まりました。

青みに寄りすぎず、茶に寄りすぎない、落ち着いた灰色です。

心配していた濁りは、気になりませんでした。

前と後を、並べて見ます

同じ角度で撮った写真を並べます。

前身頃

ベージュの綿ジャケットと、鈍色に染め直した後を並べた比較写真。前身頃

明るいベージュが、落ち着いた灰色に変わりました。

形も、縫い目も、そのままです。

背面

ベージュと鈍色を並べた背面の比較写真

背中は面積が広いので、色の印象がよく分かります。

胸元

胸ポケットとボタンまわりの前後比較写真

ステッチや縫い目の陰影が、染めることで少しはっきりしました。

同じ服とは思えない、という感想をよくいただきます。

ボタンは、外さずに染めました

正直にお伝えしておきたいことがあります。

今回、ボタンは外さずに染めました。

その結果、ボタンに少し色が付き、汚れたような見た目になっています。

これは染め直しでよく起こることです。

プラスチックのボタンは、染色の工程で色が付いたり、くすんで見えたりすることがあります。

ボタンの色をそのまま保ちたい場合は、染める前に取り外していただくことをお勧めしています。

今回は、全体の雰囲気になじむと判断してそのまま進めました。

使い込んだ風合いとして見れば、悪くありません。

ただ、これは好みの分かれるところです。

気になる方は、ご相談のときにお伝えください。

今回は起こらなかった、けれど起こりうること

今回の染め直しでは、目立ったトラブルはありませんでした。

染めムラも、縮みも、隠れていたシミの浮き出しも、気になる範囲では出ていません。

ただ、これは「起こらない」という意味ではありません。

染め直しでは、次のようなことが起こる可能性があります。

  • 染めると少し生地の風合いが変わります。染料が乗るため硬さが出る場合があり、縫い目がピリつきます
  • 一点ずつの手染めのため、多少の染めむらが生じます
  • 染色時に高温の染液に浸すため、商品が縮む可能性があります(草木染め:約70℃、藍染め:約40℃)
  • ステッチがポリエステルの場合は染まらず、元の色が残ります
  • ネームやタグも染まり、文字が読めなくなる場合があります
  • ボタンにも色が付く可能性があります
  • 着用されていた場合、いまは見えていないシミが浮き出て、その部分だけ濃く染まることがあります

一度染めると、元には戻せません。

だからこそ、お受けする前に必ずご説明しています。

素材として染められるかどうかと、満足していただける仕上がりになるかどうかは、分けて考えています。

当店として納得できる仕上がりが難しいと判断した場合は、お断りすることもあります。

構造の難しい品物では、実際にそうしています。

たとえばウールのコートは、綿のジャケットよりずっと慎重な判断が必要です。

縮みやフェルト化を防ぐため、染液の温度を低く抑えるなど、工程そのものを変えています。

実は、ウールのトレンチコートを同じ鈍色に染め直した事例もあります。

同じ色でも、素材が変わると仕事の中身がここまで変わります。

ウールのトレンチコートを鈍色に染め直し|縮みやフェルト化を防ぐ染め直しの技術

ウール素材のロングトレンチコートを鈍色に染め直す魅力と技術 ウール素材のロングトレンチコートを鈍色に染め直す魅力と技術 1. はじめに 染め屋 貴久では、お客様からお…

仕上がりまでの日数

染め直しは、お打ち合わせが済んでから、およそ3週間いただいています。

複数点で、それぞれ違う色に染める場合は、工程が増えるため4週間ほどいただくことがあります。

急ぎの仕事ではありません。

一点ずつ、手で染めています。

ご相談ください

染め直しができるかどうかは、写真を見せていただければ、おおよその見当をお伝えできます。

品質表示のタグも一緒に写していただけると、より正確にお答えできます。

元の色が何色で、どの色に染めたいのか。

そこまで教えていただけると、話が早く進みます。

すでに内容がお決まりの方は、オンラインショップからご注文いただけます。

重量の区分と色をお選びください。

はじめての方は、まずご相談いただくほうが安心です。

染めるところを、見てみませんか

当店は染め直しを本業にしている染め屋です。

その同じ工房で、染め体験もしていただけます。

ご自分の服や布を持ち込んで、自分の手で染める体験です。

今日ご紹介したような色が、どうやって生まれるのか。

布が染液から上がった瞬間に色が変わる、あの場面をご自身の手で味わっていただけます。

大阪・池田の商店街にある、小さな工房です。

おわりに

ベージュの綿のジャケットが、鈍色になりました。

元の色の影響は、たしかにあったと思います。

それでも、落ち着いた良い鈍色に仕上がりました。

染め直しは、新しい服を買うのとは違う選択です。

形も、縫い目も、袖を通したときの馴染みも、そのまま残ります。

変わるのは色だけです。

平安のころには離れることを表した鈍色が、江戸では粋な色になりました。

着なくなった一枚も、色が変われば、また手に取る一枚になります。

クローゼットの奥に、そういう服はありませんか。

お問い合わせ

CONTACT

染め直しや染料のことなど、なんでもお気軽にご相談ください。
こちらから染め体験のご予約もして頂けます。

お電話のお問い合わせ

072-703-7016

営業時間:11:00~17:00

メールのお問い合わせ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA